ナーシングドゥーラ誕生秘話

産後や育児中のお母さんの暮らしをご家族と協力しながらお手伝いする看護職「ナーシングドゥーラ」。


その養成は2016年8月設立した「一般社団法人国際ナーシングドゥーラ協会」で開始しました。


その誕生は代表理事である私の個人的な経験からスタートしています。  


その経緯をお伝えすると共に、多くの人に「ナーシングドゥーラ」というナースも産後退院後のお母さんも家族も笑顔になれる働き方を知っていただきたいと思います。

共働きと愛犬の死

   私は昭和30年代生まれ。

 小さい頃はたくさんの親戚と愛犬との賑やかな日々でした。

 しかし、男女平等という時代の流れの先端を行っていた母親は、私が小学一年になると同時に早朝から夜まで働くようになりました。  

 そして、小六から大好きな父は単身赴任に。

 その冬には愛犬の死。

 それがきっかけか「家族」について関心を持つようになりました。

 また、高校時代の友人が父親の在宅療養を手伝っているため大学進学を諦めたという話しを聞き、訪問看護という仕事に興味を持ちました。


全人的なケアを学びたい。看護大へ入学。

 兄姉が母の期待を背負って有名大学に進学する中、私は学歴に全く興味が無く、人の役に立つ仕事につきたい、特に訪問看護に関心を持ちました。 

    そんな時「看護師は「師」。

 人間として、全人的に、成長することが大切という日野原重明先生の言葉に惹かれ、聖路加国際看護大学に入りました。


ドゥーラとの出会い

 入学後、終末期や高齢者ばかりだと思っていた訪問看護でしたが、小林登先生の「ドゥーラ」に関する論文(1984 周産期医学)に出会いました。


 こどもの笑顔には家族が大切という先生の考え方に共感しました。


医療スタッフとしての経験

 そこで、訪問看護を行っていた聖路加国際病院の公衆衛生看護部に入職しました。
医師とカルテを共有した看護が行われていて、もともと理系だった私にとってはとても学びが多い日々でした。
また、新生児訪問や乳児健診、予防接種、産婦人科外来や女性ドック等を担当し、理論に基づいた保健指導を学びました。

その際、先輩の保健指導が素晴らしく、私はどうなんだろうという素朴な疑問から面接や指導をテープに録音させていだたき、相手がどういう風に感じるのかを勉強しては、自らの保健指導に生かしました。
これは受け手目線の看護を提供することを大事にしている自分としては、とても役に立ちました。

さらに院内研究で行った「外来の待ち時間を短縮するための実証実験」を通してシステムを作ることの楽しさを知りました。


緊急手術、不妊宣告、激症妊娠悪阻で離職。

当時は、外来看護師が採血当番する時代。
採れない人はいないと後輩から頼られる「吸血鬼腕」を持っていましたが、、、、
就職してすぐ卵巣脳腫による軸捻転で緊急手術。
23歳で卵巣摘出術を受け不妊宣告。
結婚直前の出来事でした。
その後、運良く妊娠しましたが、激症妊娠悪阻で-9kgも体重が減り、また、入院。
出産までなんとかこぎつけましたが、心身共にボロボロで、就職三年目にて看護から離れることになりました。
理論は知り尽くし、マニュアルはいろいろ作た経験があっても「育児の実際」は全く知らなかったことを痛感。

 

焦る日々。

同級生がどんどんキャリアを積む中、ともかく焦る日々。

実家のある世田谷とは全く文化の異なる足立出身の夫との下町での子育ては夫婦喧嘩の日々でした。

 

とはいえ、深川という人情あふれる町で、周りの人からの品ある優しさに助けられながら、試行錯誤の育児。

 

いつか、この経験を活かす日が来る、

 

いや、活かしてみせるという気持ちで7年が過ぎました。

 

スウェーデンでの子育て

 長女が一年生になった頃、

 夫がスウェーデンに留学することになりました。

 友人や先輩、親戚からは「(夫が)単身で生かせればいいじゃないか。」と言われましたが、父親が単身赴任でとても寂しい思いをしたのと、「子育て支援」が充実していると言われていた北欧暮らしを体験したくて、生後3ヶ月だった第3子含めて家族五人で渡欧しました。


 スウェーデンでは
当時産後女性は翌日退院し地域の看護師が通い母子の心身の健康を産後休暇中のパートナーと共に守る仕組み「コミュニティナース」がありました。

 

また、男性の育児休暇が当たり前。

 

 働く優秀な女性を支える「住み込みスーパードゥーラ」的な女性の仕事があることを知りました。

 

 子育てのスタート期には

 パートナーやいろんな人の手を巻き込める仕組みがあると子どもも楽しくて子育ても楽しくなるのです。

 

 私の子育て期もそういえば、そういう人が居たなと思い出してきたのです。

 

 彼女や彼女の家族がいたからなんとかやれた。


産後の援助者選定要因研究

 帰国後、日本はどうなっているのだろうという疑問から大学院に進学しました。
 「産後退院後の支援者選択要因」ついて研究しました。

 

 産科病棟入院中の約100人の褥婦さんへの聞き取りとアンケート調査結果から

「産後の支援者として不適切と判断」、

つまり「家事や育児ができない人的資源」と知りつつ、

夫や実母を産後支援者として「仕方なく」「他にいないから」と選択している事が予測されました。

 

 日本の女性が置かれている厳しい状況を知り、産後に適した支援者を選べるよう、夫や祖父母への教育含めた支援者育成をしたいと考えはじめました。


ドゥーラデビュー

 その頃、東京都助産師会主催で「産後ドゥーラ」を育成するという話を江東区助産師会から聞き一期生として学びはじめました。

 しかし「看護師」を「上から目線」と批判する同期や講師に会い受講期間は大変つらい経験でした。

 ところが、認定後すぐにうつ病の方からサポート依頼があり看護師資格をもつ産後ドゥーラ、としての仕事が始まり、その後口コミで広がり、あっという間に忙しく勇気づけられました。 

  家族を支えるのはひとりでは難しいと、チームサポートをしようといましたが、個人事業主同士の情報共有を禁止されていたのでカンファレンスする事すら出来ません。

 また、健康に関する価値観のズレ(予防接種反対・医師や看護職への批判・民間療法推進等)があり共に働く事に抵抗がありました。

 さらに、メンタルケースを一人で抱え「鬱」になってしまった同期の非看護職産後ドゥーラを見て、看護職ドゥーラの必要性を感じました。


   看護的な視点で責任ある支援を提供するために、

 病院と地域との間で支えを失い孤立する家族を減らすために

 医療機関と連携した産後支援を行うために

 

 看護職ドゥーラの必要性を感じたのです。


ナーシングドゥーラ協会設立

 そんな産後支援者とどのようにしたら出会えるか、育成しようかと悩んでいた時に、たまたま以前職場で一緒に働いていた聖路加国際病院の草川医師と再会しました。

 

 NICUのセンター長である草川医師としても、昨今のNICU卒児の増加や異常出産の増加を鑑み、医療情報を共有できるナースが産後支援してくれると、医師も安心して患者さんをお願いできるという話を伺い草川医師の協力を得て「ナーシングドゥーラ®」と命名し協会を立ち上げ育成をしはじめました。


 医療保険や介護保険等の訪問看護ではできない育児・家事・他の家族の看病・シッティングはもちろん、Wケアをされているお母さんのお手伝いができる看護師「ナーシングドゥーラ®」は、まさに私がスウェーデンで出会ったスーパー地域ナースです。
 子育て中の家族の生活に寄り添い生活の中で出てくる悩みに寄り添いつつOJTで保健指導ができる。

 そして、お母さんとともに地域に出かけて、周囲の人を巻き込んでるネットワークを作ってフェードアウトする。

 

 こんな楽しい看護はありません。


 全て未熟なこどもとご両親と一緒に、試行錯誤しながらも、そのこどもがスクスクと育つ過程を支えられるのは私がめざした「子育てを支えともに楽しむ寄り添い人」です。

 

 こんな楽しい看護を多くの方に経験していただけたらと思います。


潜在看護師とママを笑顔に。

 厚労省の調査によれば、育児や介護や結婚等で現在就業していない看護師は71万人。

 その80%が自分の育児家事と看護との両立が勤務時間が合わないという理由で復職を断念しています。また、日本看護協会無料職業案内「ナースバンク」では、長時間勤務しなくて済む個人宅で働きたいと登録しているナースに対する求人はたった1.7%。

 

 「組織」ゆえのストレイスから離れ

 お客様と自分の事だけ考えて個人宅で短時間で働く事ができる

 そんな「ナーシングドゥーラ」という働き方なら、

 自分の健康と家族の暮らしと看護を両立することができるひとつの働き方です。

 

 そして、今まで寄り添いたくても寄り添えなかった方たちほ支えられる、まさに地域子育て支援の救世主です。

 

 ぜひ、あなたも、ナーシングドゥーラ®として、地域の子育て支援に貢献してください。